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不正な法への反逆は万人の義務

以下の文章は、TorrentFreakの「It Is Everyone's Duty To Defy Unjust Laws」という記事を翻訳したものである。筆者はスウェーデン海賊党リック・ファルクヴィンエ。

原典:TorrentFreak
原題:It Is Everyone's Duty To Defy Unjust Laws
著者:Rick Falkvinge
日付:May 29, 2011
ライセンス:CC BY

しばしば、法律は従わねばならないものとしてある、という主張を耳にします。そう主張する人々は、社会に存在する最も危険な人々です。専制政治は法によって支えられるのではありません。規則と法律を信じ、法律条文にのみ追従する数多の役人によって支えられるのです。

一方、自己の責任を負う人々がいないわけではありません。意識的に自己の責任を負った人を遡れば、ソクラテスの時代に行き着きます。彼は初めて、現行法を越えて優先する道徳律があると主張しました。

法律、規則、命令への盲従の対極にあるものとして、自己の責任という概念を置いたことをお気づきになったかもしれません。もちろん、意図的にそうしています。命令への追従は、自己の責任を負わずに済む言い訳にはなりません。規則への盲従、法律への盲従も同じことです。

核災害、人命を損なう事故、開戦など、社会において重大な問題では、「私は規則に従っていただけだ」という言い訳は通用しません。 小さな問題でもそうでしょう。当局に袖の下を渡さなかったがために受注できなかったとか、クラスでただ一人、カンニングをしなかったがために落第したということもありえます。

命令、規則、法律が間違っていると考えるのであれば、それに逆らう義務がある。あらゆる戦犯が、絞首刑を前にそれを学んだでしょう。一方、多くのレジスタンスが、射殺を前に真逆のことを学んだでしょう。

ここから学べることは、誰かが作った規則や法律への盲従は懸命ではないということと、それと同じくらい、抵抗を誇示することが懸命ではないということです。合理的だと思える多くのことが、馬鹿らしいと思える規則によって禁止されてはいますが、行動の自由とバランスのちょっとした感覚を持ち合わせることで、それを実行に移すことができます。物事のあるべきかたちとして、万人の義務と言えるでしょう。規則を一般的なガイドラインとみなす社会は、法律や規則に盲従する社会よりも、隣人や市民にとって健全な社会となります。

つまるところ、あなたにはあなた自身の倫理基準が備わっているということです。法律に従うべきかどうかは、あなたが判断しなければなりません。これを考える上で、なぜその法律が作られたのかを考える必要があります。

法は正義のために作られるわけではない。誰かが政治的キャリアを積むために、法は作られる。

(これは、覆面で投石をする誰かの口から発せられた言葉ではなく、スーツとネクタイを見にまとった政治屋が口にした言葉です。)

いつの時代でも、通常、ほとんどの法律に従うことは合理的です。しかし、いつの時代でも、すべての法律がそうとは限りません。午前2時、人影も車もない交差点での信号待ちは、愚かなだけでなく、危険ですらあります。

著作権の独占は、そうした不当な法律の1つの例です。誰かを身体的に傷つけることを除いて、人類の知の共有を阻害すること以上に明確な悪を、私は知りません。文化や知の共有は、あなたにいかなる負担をもかけない、ただ人類を豊かにするものです。

こうした主張によって、私が法を破るよう奨励していると思われるかもしれません。ですが、それは違います。あからさまに違法なことをしろ、というわけではないのです。しかし、行動の自由の精神において、万人が自らの倫理基準に従い、人類が助けあうことを奨励しているのです。

それが、不正な法に逆らう、万人の義務ということです。

TorrentFreakは隔週でリック・ファルクヴィンエのコラムを掲載している。彼はスウェーデン海賊党の創設者であり、大のウィスキー愛好者、単車乗り。彼のブログ http://falkvinge.net では主に情報政策について語られている。

Twitterアカウントは@Falkvinge 、Facebookは /rickfalkvinge

言いたいことはわかるのだけれども、たとえがやや分かりにくい。ソクラテスのくだりが何を指すのかまではわからないけど、彼が死刑を受け入れた過程を指すのだろうか。彼は規則に盲従したわけなく、なぜ規則を守るべきかを突き詰めた末、自らの責任や信念のもとに従うべきという結論に至った、だから彼が従っていたのはメタ的には規則ではなく、自らの責任である、というのはわかる。

ただ、その後の「賄賂」や「カンニング」のたとえは理解しがたい。腐敗や不正が蔓延した状態にあっては、規則やルールを守ること(綺麗事につきあうこと)は合理的ではない、ということなのだろうか。だとしたら、賄賂を渡すことで亡命できたはずのソクラテスがそうしなかったのは、どういうことになるんだろう?

ルールや規則が存在しているが、しかし社会なり共同体が腐敗や不正を許している状況があるのであれば、逸脱の責任を個人に帰するべきではない、よってルールや規則を守るべき合理性はないとも考えられるが…。社会的ジレンマ問題のように。

うーん、多分、思い浮かべている比較的具体的な事象があって、それに即しての喩えなんだろうなぁ。おそらく、違法ファイル共有とか。たくさんの人がルール(著作権法)を守っていないのだから、ルールが間違っているのだ、よって律儀にそのルールに従うことは不合理である、ということなのかな。まぁ、単純にルールを破れとは言わず、「行動の自由とバランスのちょっとした感覚」で実行せよと含みを持たせてはいるけれども。

私個人としては、法による秩序に一定の意義を見いだしているので、法は守るべきだとは思うよ。だからこそ、恣意的な行使や濫用は許されないと思うわけで。

現実的には難しいけど、ルールがおかしいのであれば、あるべきかたちを模索して、ルールそのものを変えるべきだと思うし、不正が蔓延している状況がおかしいのであれば、不正を正すことが「不正な法に逆らう、万人の義務」なんじゃないのかなと思う。もちろん、海賊党が政治にコミットしようとしているのは、その現れでもあるんだけど。

それと、違法ファイル共有の文脈で言えば、共有しても違法とならない自由なコンテンツがたくさん生まれてきているのだから、そちらに目を向けようよとも思う。

この樹は腐ってる、切り倒すべきだと言いつつ、その樹の果実を期待するのはおかしい。…やっぱり、喩えってのは難しいね。

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