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ハーバード大学教授:「大学よりRIAAへ..出て行け」

RIAA これまでRIAAは数多くの人々を違法ファイル共有ユーザとして訴え、その中には数多くの無実と思われる人々が含まれている。そのような場合でも頑なに誤りを認めず、たとえ違法ファイル共有に関わっていなくとも、その責任を追及してきた。しかし、彼らも自らの誤りに気づいていないわけではなかった。普通の考えであれば、そこで誤りをなくすよう考えるのだが、RIAAはそうではなく、誤っていてもどうにかなる方法を模索することに決めたらしい。それが、大学生に対する前訴訟的和解通知である。

明らかにされてはいないが、そのプロセスはこうだろう。まず、RIAAに委託された業者が、P2Pネットワーク上の大学ドメインのユーザを補足、そのIPアドレスと当該のコンテンツを記録する。その後、大学に対して当該のユーザによる著作権侵害があった、訴えるつもりなので、当該のユーザに対してそのことを伝えよ(キャンパスネットワーク内のことなのだから、大学当局にその管理責任があるというもの)、という通知を送付する。その通知には続きがあって、もし訴訟を避けたいのであれば、和解サイトを用意したので和解金の振込後にそこにアクセスせよ、それでチャラにしてやるという寸法。多くの大学がこれに従い、学生にその警告を転送している。

しかし、これには多くの問題がある。まず、大学側は当該の学生が真の当事者であるのか、を判断できない。その上、RIAAからの通知はRIAAによる決め付けでしかなく、何ら法的な根拠を持たないのである。確かに一部の学生にとっては、和解で済んだ方がいい学生もいるだろうが、全てがすべて実際に著作権侵害を行っていたかどうかなど大学側にはわかりえないのである。

そのため、一部の大学ではこのRIAAの戦略に反発し、しかるべき手続きによらない(つまり、法的な手続きによらない)RIAAの要求には従わないことを、表明している。もちろん、その手続きに則っていれば、ユーザログを提出するわけだけれども。

今回は、ハーバード大学の教授2名が、このRIAAの戦略に対して大学側がどう対応すべきか、そしてRIAAはどう行動すべきかを表明しているよ、というお話。タイトルや冒頭では出て行け、と辛辣に言い放っているものの、彼らの真意は話し合うというところにあるようだ。非常に興味深く、納得できる内容になっている。

原典:The Berkman Center for Internet & Society at Harvard Law School
原題:Universities to RIAA: Take a Hike
著者:Charles Nesson & John Palfrey
日付:July 10, 2007
URL:http://cyber.law.harvard.edu/home/filter?wid=379&func=
viewSubmission&sid=2802

最近、RIAAのCary Sherman会長が、大学当局が学生の音楽ダウンロードの「受動的なパイプ」としての役割を担うことを止めるよう要求する手紙を、ハーバード大学に送付してきました。我々はそれに同意します。RIAAが「前訴訟的警告状」を送ったハーバード大学とその他22の大学は、強い、そして直接の措置を取るべきです・・・RIAAは、出て行けと。

今春、米国中の大学に、1,200通の前訴訟的警告状が届けられました。RIAAはさらにこれを続けると約束しています。これらの警告状は、RIAAがどの学生を訴える予定であるかを大学に示すものです。ただ、学生はIPアドレス、つまりインターネットコネクションの「ナンバープレート」のみによって特定されています。RIAAはIPアドレス以上のこと、つまり学生の名前を知りえてはいないため、警告状では、通常の法的手続きに頼るのではなく、大学がその通知を当該の学生に届けるよう依頼します。

大学はこの異常なプロセスに関わってはいけません。RIAA憲章は、そのメンバー企業の財政的な利益を促進することが掲げられています-たとえそれが、旧式のビジネスモデルを保護することを意味していても-。しかし、大学憲章はそれとは全く異なります。ハーバード大学憲章は、1636年、大学が設立された目的を反映しています。「全ての優れた文学、芸術、科学の進歩; あらゆる優れた文学、芸術、科学における青年の進歩と教育; この国の青年の教育のためになる可能性のある、その他全ての必要とされる物の供給」

大学は、知識を創出し、学生の精神を知識に開放し、学生に最高の教育の機会を提供するよう努めるものです。大学にはRIAAのメッセージを届ける法的義務はありません。それが、大学の使命に一致すると信ずることができるときにのみ、そうしなければならないのです。

我々は、今がそうだとは思えません。

大学は特別な場所です。ほとんど二度とは得れないだろう時間、いかなるものにも優先して開放性を愛しむコミュニティで共に学ぶ時間、そのための時間と空間が学生に与えられるのです。大学が特定の産業の介入を許すのであれば、私たちが学生に送っているメッセージは、大学が商業的な利益を介入させる用意があるということを示します。もちろん、その介入が正当化されるときもあります。バージニア工大の恐怖は、我々の精神、心に響きます。大学の教育機関としての永続的な尊厳を侵すために、政府と産業の介入の許容を正当化する理由はほとんどありません。しかし、著作権保護の主張は、-合法的な主張であるにせよ-レコード会社への支払いを学生に要求するメッセージを転送することに対する、学生の信頼とプライバシーへの裏切りを正当化しうるものではありません。

大学には、我々の学生に善良な市民であることを教える義務があります。善良な市民は、自らの行動に責任を持たなければなりません。我々の学生が法律を犯しているあれば、彼らはその対価を支払わなければなりません。しかし、それはここでの問題ではありません。RIAAは、直接に学生を含む10,000人以上の人々を既に告訴しています。彼らは、より弱いものをいじめるような古典的な戦術に従事しているようです。つまり、彼らはそのようなひどい結果を持って脅かし、それによって裁判に持ち込むことなく和解させようとしているということです。問題は、大学が産業の訴訟を起こすための手助けをしてはならない、ということです。

RIAA自身のプレスリリースの副題には、見せ掛けの素晴らしさがあります。「新たなプログラムは、違法ダウンロードのもたらす結果についての会話を活発にする」。

もし、RIAAが会話を刺激したいのであれば、本当の対話をしなければなりません。実際にキャンパスに来て我々に加わってください。そして、デジタルネイティブである我々の学生と、公正な知的所有権保護を考える大学教職員と、サイバースペースにおける戦略や活動を管理する大学顧問やテクニカルチームと、実際に話してください。そして、RIAAもまた、我々と共に問われなければなりません。アーティストの作品を循環させ、利用することを最大限許容しつつも、アーティストに報酬を与えるモデルを、我々は構築できるかと。それは我らが建学の父祖の意図したものでもあります。

我々は、全ての重要な問題に対して議論していかなければなりません。大学はあらゆる考えを聞き、そして議論することのできるオープンなスペースを提供します。アイディアのサイクルへのあらゆる制限が、大学の使命に直接悪影響を及ぼします。クリエーターの法的な権利を維持しながら、どのようにして、我々は多くのアイディアを、多くの作品を、多くの対話をオープンにできるでしょうか。どのようにし、大学を今以上にオープンにできるでしょうか。まさにRIAAと同じく、大学はどのようにデジタルな未来を受け入れ、その機会を最大限に活用できるのでしょうか。

RIAAの偏狭な利益の支払いのない強制執行を行うことは、この質問の答えにはなりません。

RIAAがその存在理由からこのような事を起こしているのであれば、大学は大学としての存在理由からそれに従うべきではない、としている。大学側がRIAAの戦略に応じるとすれば、それが大学としての存在意義と合致するときにのみ、なされるべきだ、というのは非常に納得できる。

然るべき手続きに則って、当該の学生を特定せよというのであれば、それには応じるだろう。つまり、その手続きを経ずに、RIAAの信ずる偏狭な正義に大学側は付き合ってはならない、ということだ。大学は、学生が善良な市民として、責任を負わねばならないときにこそ、それに応じるべきなのだろう。

また、RIAAの信ずる正義を語るならば、それは話し合われなければならないというのにも納得だ。もちろん、RIAAにはそれに応じる義務などはない。しかし、その正義や信念を本当に伝えたいのであれば、大学や人々の中に入って行き、そこで議論し、そうして啓蒙していくべきだろう。もちろん、これはRIAAだけに要求されていることではなく、これに関わる全員がその責任を負っているともいえるのだが。

それにしても、後段はなかなか皮肉たっぷりな味付けがなされているようにも思える。しかし、裏を返せば、それは皮肉などではなく、本来議論されねばならないことでもある。如何にして、アーティストの利益を守りつつ、それを社会に還元、循環させるか、それは著作権法という枠組みを超えて、文化を守り、育むために必要なことでもあるのだ。双方が不都合を隠しあっていては、議論は進まないのかもしれない。

うーん、この話は、いろいろと考えさせられた。大学というものの存在は、単なる社会への準備やモラトリアムの消化(昇華)という側面だけではないだなぁと。大学ってところはいかようにも過ごせるけれど、過ごす人によってその意義ってのは、ものすごく変わるということかしら。その良し悪しってことではなくってね。

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| | 2007.07.30 17:18
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