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コンテンツは砕けないッ!

コンテンツの終焉という記事を読んだ。非常に興味深い話なのだけれども、いささか引っかかるところもある。

この記事を要約すれば、消費者が求めているのは「コンテンツ」そのものではなくて、それによって媒介される「体験」であり、そのためには「インタラクティブ性」が価値を持つのだというところだろうか。もちろん理解できない話じゃない。現に、ここ10年の音楽産業の試みはそれに特化してきたわけだ。コンテンツの素晴らしさではなく、価値観の共有に重きを置いてきた。アムラーに始まり(それ以前にもあったけどね)、浜崎あゆみ、倖田來未まで連綿と続く、「ブランド化(偶像化といってもいいかもしれない)」されたコンテンツなどはまさにその典型だろう。

しかし、いずれは飽きられるものでもある。「ブランド」を確立し、ターゲット層に共有された体験をもたらしたとしても、それで終わりではない。人々は変化を求める。ブランド本人やその周囲がどう望もうとも、変化は最終的には自ら作り上げたブランドを破壊する変化してもブランドが崩壊するし、変化しなければ飽きられる(これもまたブランドの崩壊だが)、どちらかが先に来るだけだろう。そして、別の共有されうる「ブランド」に流れていく。そこで重要になるのは、「ブランド」そのものではなく、「ブランド」によって媒介された、共有される「体験」なのだろう。

だから、「唯一無二の体験」というのは必ずしも正しくはないと考えている。ここでの体験は、唯一無二のものではなく「共有された刺激的な体験」、それが求められているのだと思う。対人間のコミュニケーションは、システムをうまくいかせるための手段ではなく、人々にとってのインセンティブなのだと考える。

それは、何もコンテンツビジネスに限った話ではない。たとえば「ゴシップ」などはどうだろうか。何も芸能人の不倫だのそういうものだけに限らない。殺人事件、食品問題などの重要な問題ですら、事実だけでは人々は満足しない。そこに尾ひれがついたくらいでないと、共有するまでもないのかもしれない。ゴシップ化したものはより人々の中に入り込み、ソーシャルな体験の媒体となる。しかし、あくまでもその体験を求める人々は、1つのゴシップではすぐに飽きが来る。だから、いつだってテレビはゴシップだらけだ。次から次へと早いスパンでゴシップが流れていく。

これはWeb上でも同様だろう。次から次へとめまぐるしく「ネタ」が流れていく。まさしく「ネタ」だけあって、「インタラクティブ」のための「ネタ」なのだ。だから、その「ネタ」そのものに価値があるわけじゃない。その「ネタ」によって生み出される「インタラクション」にこそ価値がある。だから、その価値を共有しているコミュニティであれば、いくらでもネタが流れてかまわないのだろう。

そんな時代なのだから、新たな「体験」、そのための「インタラクション」「ソーシャルさ」にこそ、次のステージがあると考えるのも無理はない。しかし、コンテンツビジネスに関して言えば、「ブランド化」、筆者の言うところの「集団幻想としての同期性」を求めたところに失敗があるのだと考えている。結局のところ、コンテンツが「関係性」のための無数の「媒体」の1つでしかないのであれば、それはいくらでも替えがきくというものである。

だからこそ、私はコンテンツ産業がそこを目指してはいけないのだと考えている。消費型「だけじゃ」ダメなんだと。「唯一無二の体験」は必ずしも、新しいものを持ってくることで解決するわけじゃない。同じものであっても、その都度「唯一無二の体験」をするができる。なぜ、音楽は何度も何度も聴かれるのだろうか?それはその都度、唯一無二の感動を持つからに他ならない。そして、そのような音楽は他の人と比べても唯一無二の体験だろう。The BeatlesのTomorrow Never Knowという曲がある。これを聴いた私とあなたとでは違う感動を覚えるはずだ。誰一人、同じ感動を覚えることはないだろう。みな、異なる体験をする。そして、自らの体験を誰かに話せば、その両者とも再び異なる体験をすることになるだろう。1つの体験、1つの共有、それによって異なる自分になるのだから。

確かに、そこで個々人が持っている価値感は、社会的に構築された価値なんだろう。しかし、それを体験するのは社会的な「自己」である。コンテンツに社会的な価値や社会的な体験を求める部分もあろう。しかし、そのような価値や経験が得られるのであれば、その映画や音楽やアニメやドラマやバラエティやコラムや小説は不必要だろうか。

私はこの筆者があまりに合理的に考えすぎているように思える。人には知的探究心があり、それでいて知的受動性が高い部分もある。受動的に得たコンテンツであっても、泣いたり笑ったり、高揚したり落ち込んだり、心を揺さぶられることは多い。例え社会的に構築された価値観であっても、それを揺さぶられるのは自分自身。それこそがコンテンツの持つ、持つべき価値なんじゃないかな。

現在のコンテンツ産業が、積極的に社会的体験を活かすという努力にかけているのは筆者の指摘している通りだとは思う。ただ、社会的体験が他の媒体によって補完されたとしても、それによってコンテンツが価値を失うということはありえないだろう。もちろん、膨張してしまった分、補完された分だけ縮小するのは考えられるし、おそらくはそうなるだろう。しかし、それには下限がある。それは、コンテンツ自体の本当の必要性というものが、筆者が常識として思い込んでいるよりもいくらかは高いからだ。

だから、いくらでもコピー可能な世界はおそらくは出来上がらない。筆者はこう述べている。「コピーごときで収入の機会を奪われるような脆弱なビジネスモデルの方に問題がある。」いや、だからこそ、著作権が存在する。だからこそ、守られるべきだと思っている。だからこそ、今ビジネスを再構築しなければならないのだ。

「ドリルを買う客はドリルが欲しいのではなく穴が欲しいのだ」。結果的に穴が開けばいい、確かにそれは正しい。でも、私は無駄にゴージャスなドリル、ひん曲がったドリル、いびつなドリルやビンテージのドリルで穴を開けることを楽しみたい。

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